第三回 文化資本と階層
Eテレ_100分de名著 2021年12月07日放送分
指南役 岸 政彦
ブルデューは学歴や教養など、文化的な素養を「文化資本」と名付けた。
階級の差を固定するのは、皮肉にも「教育の場」であると指摘する。
学校が社会的不平等を再生産している。
文化資本における美的性向と階級
いわゆる「映画ファン」とか 「ジャズファン」の人々の中には、
いかにも学校教育をもじったような作業
(たとえば映画のクレジットタイトルを
分類カードにとったりすること)を夢中でする人もいるが、先に述べたような能力
(映画監督や俳優などについて詳しくなること)は、
必ずしもこういった作業によって 身に着けられるとは限らない。この種の能力はだいたいにおいて、
それと気づかぬうちに 修得されてゆくものであり、
それは家庭や学校で 正統的教養を身に着けてゆく中で
獲得される一定の性向によって、可能になるものである。
両親が骨董や絵画に造詣が深い家庭は子供にとって有利に働く、芸術作品や音楽はそこに込められた意味を読み解くリテラシーが無ければ鑑賞していても全く面白くない。
馬の耳に念仏、猫に小判。
家庭にそれとなく芸術に触れる機会があると、自ずから意味を解釈しようと努めるよう成長する。
子供の腕にデジタル時計を着けてあげると大喜びする。
ある日、この数字が何を意味するものか親に尋ねる。
かくして、美しい理系女子に成長するのであった。
ブルデューは美的性向とは、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受け取る能力のことだという。
美的性向とは、日常的な差し迫った必要を和らげ、
実際的な目的を括弧にいれる 全般化した能力であり、
実際的な機能を持たない 慣習行動へとむかう
恒常的な傾向・適性であって、それゆえ差し迫った必要から
解放された世界経験のなかでしか、
そして学校での問題練習とか 芸術作品の鑑賞のように
それ自身のうちに目的をもつ 活動の実践においてしか、
形成されないのもである。言い換えれば美的性向は、
世界への距離を前提としているのであり、
この距離は世界の ブルジョワ的経験の原理なのだ。
博学多才でなくては、その芸術作品の良し悪しを評価できない。
自分の感覚から距離をとって、方法・形式だけを眺める禁欲的な態度
= 学校的ハビトゥス
- 美的性向を得ている人は、禁欲的な態度が見についている。
- 禁欲的な態度で接しなければ美の本質が見えてこない。
中流階級zone | |
文化資本⊕ | 禁欲的な態度で接しなければ美の本質が見えてこない。 美術鑑賞、クラッシック鑑賞はよほどのインテリでないと面白く感じない。 上流の社交界デビューを果たすためにはまずは王朝コードを覚える必要がある。 |
経済資本⊖ |
上流階級zone | |
経済資本⊕ | 金に目が眩むと本質を見失う。なまじ金を持っているのは厄介なもの。 お金があっても真贋を見分ける眼を持つか、絶対信頼のおける目利きが必要。 初代が創業して、二代目で傾き、三代目のボンボンが会社とお家を潰す。 |
文化資本⊖ |
侘び錆びを知らずんば銀閣寺の美しさが分からない。金に目が眩むと金閣寺の美しさが分からない。
金将が一番、銀将が二番。銀の奥に金がある。手順を踏まずしてなぜかマネーだけ持っている奴を成金と呼ぶ。
- 文化的再生産論
⇒ 出身階層に傾向づけられる性向が階層を再生産するという社会学的な見方。
階級のシャッフルをする意味合いで作られた学校制度が、実は機能しておらず、親の年収や階級が、
子供の学校的達成と相関している。
- 出身階級で100%決まらない が、「心構え」は学校や世の中で有利に働く。
安直に考えて日本で文化資本を一番持っている界は大学・研究機関のような学術界でしょうか?
とするなら、経済資本を一番たくさん持っているの財界という事に…。
私は、工場でベルトコンベアの流れ作業に従事するブルーカラーなのですが、仕事では一切頭を使いません。
文字を書かないから漢字なんか忘れて行くいっぽう。
ブルーカラーの職に就くか、ホワイトカラーの職に就くか、研究職に就くかで、その後一生涯にわたり積み重ねられる文化資本(知識量)に圧倒的な差が付きます。これは人生の早い段階から選別されており、恐らく中学高校の進振で英才教育のカリキュラムを行っている上位進学校校に入れなければ、教養とは縁のない一生を送る。
思うに経済の格差は、知能の格差にそのまま直結している。
全体像を知り自分の立ち位置を正確にマッピングすると、とても悲しくなってくる … …。
ここで先生の言われてる「心構え」とは集中力の事だと思う。
小学1年生の一回の授業は40分
小学5年生の一回の授業は45分
中学の一回の授業は50分
高校の一回の授業は60分
大学の一回の講義は100分
成長するにつれて精神的に落ち着いて行き、同時に集中力の維持できる時間も伸びて行く。
しかし、養育環境が最悪だと、例えば夫婦喧嘩をしている修羅場で宿題なんか出来る分けも無く、生活に余裕が無くすさんでいる家庭では子供の精神的な成長が未熟。
ゆとりある家庭の子供は、映画館、博物館、プラネタリウム等に行く機会が多く設けられ子供が早熟。
1コマの授業時間を集中力を維持したまま座って聞いている事が出来なくなった所で授業に付いて行けなくなる。
集中力が無いという状態とは、一つの事を考えている時に、別の事が、更に別の事が頭に思い浮かんでくる状態のこと。子供の頃から心配事や憂いが多いと、思考のリソースがそこに割かれ、脳に負荷がかかったその状態で脳が働く習癖が見に付いてしまいなかなか修正が利かない。
集中力トレーニングにより矯正できるが、生活環境が変わらない限り、これはたいした意味が無い。
ポイントは子供が落ち着いて自分の頭で考える時間を作ってあげること。
親御さん自身のお受験経験有り無しや、「学歴から受ける計り知れない恩恵」の理解度で大きく変わる。
一家揃って高学歴で、学校に頼らずとも直接勉強を教えられる学力を有している家庭は家で英才教育している。
「学歴から受ける計り知れない恩恵」は知っているものの、自身は受験経験も無く、子供に勉強も教えられない。
これがのび太のママ。
残念ながら、「心構え」が養えなかった人(気が散って集中できない体質に成長してしまった人)は、どうするか?ですが、幸田露伴の努力論によると、気が散るに任せて意識のサーフィンを楽しむのも良いだろうと。
どうせ、一周回って帰ってくるだけだから、その時、何を考えていたのかメモをとっておいて、同じ思考を二度ループしないように人生を楽しむ。確かに散る気はアイデアとか閃きの源泉でもあるのだけど、但しそれは膨大なインプットを持っていての話しである。
学校が再生産する階級格差
学校教育制度は生徒たちを種分けして、
ある者は正統的慣習行動を おこなう者として評価の高い位置づけへ、
またある者はこれをおこなわない者として
評価の低い位置づけへと 振り分けていくことにより、彼らの抱いている さまざまな希望や要求、
自己イメージや自己評価を 操作している。そして学校による 分類=等級付けが生み出す
さまざまな公認の差異は、教育機関が明確に かつ厳しく要求していることとは
およそ縁のうすい行為、例えば日記を付ける、
厚化粧をする、劇場やダンスホールに通う、詩を書く、
ラグビーをする などといったもろもろの行為も、教育機関の内部で 当人に割り振られた位置づけのなかに、
暗黙の要求として 含まれていることがありうるのだ。
だけども、文化資本、経済資本から来る教育格差をなくすとしたら、
それこそ親から子供を取り上げて、全ての児童を小学・幼稚園から全寮制のクラスに入れて教育するしかない。
しかし本当にそれをやったら、キブツやクメールルージュみたいな事になってしまう…。
だけども、文化資本、経済資本から来る教育格差をなくすとしたら、それこそ親から子供を取り上げて、全ての児童を小学・幼稚園から大学まで全寮制のクラスに入れて教育するしかない
しかし本当にそれをやったら、キブツやクメールルージュみたいな事になってしまう…。
ハマータウンとどっちがマシ?
岸 先生の推薦本
(ちくま学芸文庫)文庫 – 1996/9/1
ポール・ウィリス (著), Paul E. Willis (原著, その他), 熊沢 誠 (翻訳), 山田 潤 (翻訳)
階級格差の再生産 果たして決定論なのか?
学歴資本の個人差は、学校教育機関では直接教えられも
検定されもしない 映画やジャズのような分野においてさえ、
たしかにいつも各人の能力差に
きわめて密接につながってゆくのであるが、学歴資本が同等の場合には、出身階層の差異
(その「効果」はすでに学歴資本の差のうちに表されている)が、
様々な重要な差異によってつながってゆく。
とかく人間というものは自分を正当化する倫理を選びがち。
⇒ 自己責任論
- 東大生の親の年収の6割が950万円以上という事実がある。
- 階級格差の再生産 果たして決定論なのか?
次ぎに生まれて来るときは、良い所のお坊ちゃんに生まれたーい。次は是非是非ボンボンのドラ息子におながします。
- 社会学は「その人のせいじゃない」と言う作業を続けている。
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